『ボクシング』
私が、1番好きなスポーツです。
特に90年代の日本のチャンピオンには夢中になった。
中でも1番有名なボクサーは、間違いなく辰吉丈一郎だ。
その次に人気もあり、華があるボクサーだったのは畑山隆則ではないでしょうか。
今日は、私も大好きだったボクサー畑山隆則について書いていきたいと思います。
【目次】
畑山隆則とは
青森市で生まれ育った隆則は、少年時代は典型的な野球小僧だった。
ジャイアンツの野球帽をかぶり、憧れの西本選手をまねて足を振り上げていた。
小学6年生には、少年野球チームのエースで4番。
抜群の運動神経と小6にして170cm近い上背。当然のように敵なしだった。
中学3年で130キロ超という肩がスカウトの目に留まり、名門・青森山田高校へスポーツ推薦で入学。しかし、ヤンチャながらも将来を有望された逸材は、入部1か月で先輩と衝突し、あっけなく退部する。
しかし、このタイミングで風穴を塞ぐ出会いがあった。
1991年9月19日、この日、辰吉丈一郎がデビューから8戦目で世界王者になった。このテレビを見て「殴りあって褒めてもらえるだろ。俺にピッタリじゃないか」とバイトで資金を貯め、16歳と11か月で上京。
はじめは、アルバイトをしながら名門のヨネクラジムにはいったが、アマ経験もない無名の田舎者は多くの経験者の中に埋もれていった。焦りと不満を抱えながらボクシングマガジンをめくっていると、「世界チャンピオン製造機柳和龍トレーナー」というキャッチコピーが視野に飛び込んできた。翌日には新しいジムの門を叩く。
この行動力こそが畑山隆則という人間の強みだ。
運命を変えた「柳和龍」との出会い
2人の韓国人ボクサーを世界に導いた名トレーナー柳和龍は、畑山の才能をすぐに見抜いた。
「世界チャンピオンにしてやる」という柳和龍の指導は容赦なかった。
その結果、2人は凄まじい勢いで階段を駆け上がっていく。
7戦目で全日本新人王を獲り、8戦目から15戦目までは連続KO勝利。
デビュー3年で東洋タイトルを奪取。きびきびとした動き、チャンスと見るや連打を浴びせて倒しきる底力。観るものをスカッとさせる試合は当然のように人気を呼び、いよいよ世界戦の舞台が用意された。
初挑戦は、王者、韓国のチェ・ヨンスと血みどろの打撃戦をするも判定でドローとなり失敗となる。
この引き分けは、順風満帆なボクシング人生だった畑山を抜け殻のようにしたが、再起
戦に「史上最大の日本タイトルマッチ」と銘打たれ、大観衆の両国国技館で行われ、日本スーパーフェザー級王者コウジ有沢に9回TKOする。
その後、チェ・ヨンスに再挑戦し世界のベルトを手に入れた。
だが、減量苦からコンディションをうまく調整できず、2度目の防衛戦で敗れる。
はじめてのKO負けのショックは計り知れず、24歳という若さで引退を表明するが、まだボクシングへの思いは断ち切れていない本心に気付く。
畑山隆則 VS 坂本博之
階級を1つあげて現役復帰したものの、柳トレーナーはもうそばにいなかった。
畑山は、ロスに飛び、ルディー・エルナンデスとの化学的トレーニングに没頭した。
その後再び世界戦に漕ぎつけ、ヒルベルト・セラノにKOで勝利し、世界2階級制覇を達成した。
畑山の試合でファンにとってもっと印象深い試合は、間違いなく初防衛戦となる坂本博之戦だと思います。
畑山の槍のようなストレートか、坂本の鉈のようなフックか。養護施設で育った坂本のハングリーさか。青森から夢を抱いて上京し、すべてをボクシングにささげた青春か。
涙すら誘う熱闘の末、鉈は空を切り、槍が突き刺さった。
坂本戦ほど畑山隆則の魅力が詰まった試合はないと思います。
最後に
畑山隆則が、試合前に言っていたコメントがすごくカッコいい!!
『自分にはパンチがない。あごも弱い。相手は、パンチもあるし、あごも強い。だから僕が勝つんです!!』
何がいいたいんだという内容ですが、正しい戦略を立て、相手を分析して、自分の弱みを強みに変えるということなのだろう。
試合後のコメントでもう一度詳しく説明していた。
僕は、パンチがないのを知っている。だから、手数で勝負した。しっかり相手の打ち終わりを狙って。
坂本さんは、パンチがあるからワイルドになる、僕はパンチは弱いから小さく細かくパンチを出す。あごも弱いのを知っているのでしっかりブロックをする。坂本さんは、あごも強いから大丈夫と多少打たれてもいい覚悟ででてくる。
僕は、手数を出し続け、そしてだんだん相手も弱りそして倒れる。
この試合から『自分が弱いということを受けいることが大事だ』という事を学んだ。
この試合は、日本人対決で間違いなく1番の試合でしょうね。