モハメド・アリ
生年月日:1942.1.17 身長:190㎝ スタイル:右ボクサー
戦績:61戦56勝(37KO)5敗
【目次】
地球規模で戦った男
「蝶のように舞い、蜂のように刺す!!」
一体いくつの名言が、この男の口からは発せられたのだろうか。
実際には、発言直後は単なるホラ吹きに思われて、その後の大快挙で歴史的な名言に劇的変貌を遂げることが多かった。
野球のベーブ・ルースやバスケットボールのマイケル・ジョーダンといった有力候補は他にもいるが、少なくとも、ボクシング界では、モハメド・アリこそが「スポーツ史上最も偉大な選手」だろう。
”奴隷主が付けた名”として放棄した旧名は、カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア。60年に行われたローマ五輪での金メダル獲得で、黒人としての低い身分を超越したと思い込んでいたアリだったが、白人専用のレストランで門前払いを食らった。
これに激怒したアリは、オハイオ川へ金メダルを投げ捨てたという話が有名です。
そしてプロのリングでは、ヘビー級史上最速ともいわれる連打と、当時のヘビー級では斬新ともいえたヒット・アンド・アウェイ戦法で連戦連勝を続けた。
64年、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンを、6回終了TKOで攻略する。五輪以来、再び世界の頂点に立ったアリだったが、またしてもアメリカ社会が最大の敵となった。
ベトナム戦争への徴兵を「俺を”黒ん坊”と呼ばないベトコンに文句はない」と拒否。
これで王座とボクサーライセンスを剥奪され、アリは69年から、特に脂の乗った20代中盤の選手生活を棒に振った。
ようやくカムバックした頃、ヘビー級戦線はジョー・フレージャーという新たな最強の男が制覇していた。アリも、第1戦は判定負け。「世紀の対決」と銘打たれたこの試合の最終回に、アリがダウンした光景を観て、世界中で最低5人がショック死したといわれている。
ただ、最終的にはフレージャーに2勝1敗で勝ち越し。さらに難敵フレージャーを、わずか2ラウンドで沈めたさらなる怪物ジョージ・フォアマンも、アリは、序盤にロープに背負いながらスタミナ浪費を誘い、8回に大逆転でキャンパスへ沈める。アフリカのど真ん中、キンシャサで起こったこの奇跡は、人種を問わずに地球規模の感動を世界に与えたのだった。
伝説は今も感動を生み続ける
その後のアリは、大きな伝説を追加することなく、防衛記録を伸ばしていく。逆に、チャック・ウェプナーという意図的に選んだ無名選手に、大苦戦を喫し、映画「ロッキー」のアイデアになってしまうという、他人の伝説への貢献はあった。
78年、11度目の防衛戦でレオン・スピンクスに判定で敗れ、リマッチで借りを返したものの、続くラリー・ホームズ戦で連敗を喫し、81年、アリはついに燃え尽きた。
そんなアリが世界的な檜舞台への再び姿を見せたのは、96年のアトランタ五輪だった。最終聖火ランナーとして、サプライズで登場。後日、同五輪の金メダルが、国際五輪委員会のサマランチ会長から授与されるという粋な計らいもあったが、多くの者たちは聖火を受け取った右手よりも、もう片方で激しく震えていた左手に目を見張ったのではないだろうか。
その時アリの肉体では、パーキンソン病が進行していた。娘のレイラも「父が何を話しているかわからない」と吐露していた。
現代医学では治せぬ病に打ち勝って、スポーツ史上最も偉大な男の地位を不動にしてほしいところだったが、2016年6月3日に74歳で死去した。
アリVS猪木
過少評価されたアリVS猪木
本当に誰も得をしなかったのか!?
アリのふとした挑戦者募集の発言から、1976年、本当に実現してしまったのがプロレスラー、アントニオ猪木との異種格闘技戦。試合後には「世紀の凡戦」と酷評されたが、今世紀に入って、PRIDEなどの総合格闘技ブームから、片方が寝て、もう片方が攻めあぐねる状態が格闘技界の大きな先駆けであったことに気づき始める。1-1の引き分けは誰も得をしない結果にも思えたが、推定14億人が固唾を飲んで見守ったこの一戦で猪木の知名度は世界的なものになった。